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【誕生秘話】世界を制する利他の企業精神。

こんにちは、アイデアマン養成コーチの寺ちゃんです。

アイデアマン養成所の喫茶室で、ひらめき先輩、
新入社員のアイちゃん、デアくんの三人が雑談をしています。

ひらめき先輩
「きょうは日本が誇る世界ナンバーワンの
ファスナーの話をします」

アイちゃん
「YKKですね?」

デアくん
「僕もよく知ってますよ。名前だけは」

ひらめき先輩
「いまや世界的なブランドになっていますが、
ここまで来るのに、やはり紆余曲折があった
ようです」

アイちゃん
「簡単には、世界一にはなれないって
ことですね」

ひらめき先輩
「創始者の吉田さんが富山県魚津から上京した
のは、20歳のとき。吉田さんの夢は貿易商に
なることだったそうです。最初に勤めた所は、
中国陶器やファスナーの輸出入を手がける会社
だったんですが、4年足らずで倒産しちゃった
んですね」

デアくん
「そういうスタートだったんですか?」

ひらめき先輩
「そのとき、在庫のファスナーを引き取って、
サンエス商会という会社を立ち上げました。
それが1934年のことです」

アイちゃん
「なんか、いやな予感がする・・・」

ひらめき先輩
「1938年に吉田工業所と改称して、ファスナーの
加工・販売を続けていました。江戸川区小松川に
ファスナーの工場を建てたんですが、これが空襲で
焼かれてしまうんです」

アイちゃん
「やっぱり・・・」

ひらめき先輩
「アイちゃん、そんなに悲観的にならないで。
終戦後は、魚津に工場を建て、軌道に乗り始め
ます。そんなとき、あることが起こるんです」

デアくん
「ええ、怖いなぁ・・・」

ひらめき先輩
「東京の営業所に、アメリカ人のバイヤーが
訪ねて来たときのことです。吉田さんは自分
たちの自慢の商品をそのバイヤーに見せたと
ころ、一笑に付されてしまうんです」

アイちゃん
「何があったんですか?」

ひらめき先輩
「そのバイヤーが持っていた商品が、比べものに
ならないほど優れたものだったそうです。当時、
日本のファスナーは手作りだったんですが、アメ
リカ製のものはすべて機械で作られていたので、
安くて品質もよかったんですね」

デアくん
「技術の差、か・・・」

ひらめき先輩
「それを見た吉田さんは、強烈な危機感を抱いた
そうです。それに対抗するにはアメリカ製の機械
を輸入するしかないと思い、さっそく機械を輸入
しました。そして、1949年10月には、月産100
万本を達成し、ファスナー生産で日本一になった
んです」

アイちゃん
「すごーい!」

ひらめき先輩
「ここからが、また凄いんです。吉田さんは、量産
体制を整えるために、すべての工程の一貫生産体制の
確立を目指しました。これには社内外から反対の声が
上がったそうですが、消費者に品質の良いファスナー
を安定して提供するには、ファスナーにもっとも適し
た材料を原料から作るべきだという考えを貫いたんで
すね」

デアくん
「すべては消費者のために、か。偉いなぁ」

ひらめき先輩
「1958年からは、原材料だけでなく、機械そのものも
自社生産になったそうです。それからは、あらゆる用
途のファスナーの開発を手がけていったんですね」

アイちゃん
「どんなものまでやっているんですか?」

ひらめき先輩
「聞いて驚きますよ。衣料品から産業用まであるんで
すが、珍しいところでは、漁網や水中養殖用のカゴ、
ビニールハウス、麻袋、防虫・防鳥ネット、宇宙服、
化学防護服、ダイビングスーツ、それに大きな建造物
の建設にも一役買っているそうです」

デアくん
「へぇ、そこまで応用範囲があるんですか」

ひらめき先輩
「ちなみに、YKKの社名は、“Yoshida Kogyo Kabushikigaisha”
の頭文字をとったものだそうです。そして、企業精神は、
“『善の循環』他人の利益を図らずして自らの繁栄はない”
というものです」

アイちゃん
「創業者の吉田さんらしい企業精神ですね」

ひらめき先輩
「はい、きょうのお話はここまで。
読者の皆さんも、最後までお読みいただき感謝します」

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